気まぐれ連載[離島クロッキー]第二回… 伊江島に残りし、my before 沖縄

Reading Material

歴史文化

初回投稿日:2015.08.29
 最終更新日:2024.03.27

気まぐれ連載[離島クロッキー]第二回… 伊江島に残りし、my before 沖縄

離島取材で出逢った、何気ないシーンや心に止まった情景、降りてきた想い(ウムイ)を、そこはかとなく素描する、気まぐれ連載[離島クロッキー]。(前回にも増して)とりとめもないもない第二回の今回は、4月に行った「伊江島」(ま、別の仕事で行ったから、わが沖縄CLIPでは記事書いてはいないんだけど)。
 
実に7年ぶり、3度目の訪島となった伊江島だが、沖縄移住してからは、初めての上陸だ。

フェリーから見る、伊江島
 
本島北部、本部(もとぶ)半島の西9kmほどの海上に浮かぶ伊江島といえば、もち“タッチュー”。正式には『城山(ぐすくやま)』、というのはあまり知られていない。恩納村(おんなそん)辺りの西海岸からは、北西十数キロ先に大抵見えるシンボリックなトンガリ山だ。登山道がしっかり整備された標高172.2mのピークには、本土からの修学旅行生たちで賑わっていた。うりずん(沖縄の言葉で、初夏の頃)の空に、爽やかな笑顔がよく似合っていた。

伊江島といえば、もち“タッチュー”。正式には『城山(ぐすくやま)』、

修学旅行生たちで賑わっていた

修学旅行生たちで賑わっていた
 
彼らは、きっと戦跡も訪れただろう。戦時中、この島は戦闘が激しく4,700人が戦死し、島民の約半数が戦闘や集団自決で亡くなった。島を巡ると、様々な戦争の爪あとが残されている。また、島の1/3ほどが、今なお米軍演習場で占めている。そういう沖縄のもう一つの顔を、若人たちの目には、どう映ったかな。

島を巡ると、様々な戦争の爪あとが残されている
(2008年撮影)
 
ところで、この時は、実は『ゆり祭り』の取材がメインだった。約86,000㎡の『伊江村リリーフィールド公園』内に植えられた、およそ20万株。紺碧の東シナ海をバックに咲き誇る、100万輪ものテッポウユリは見事だった。

テッポウユリ
 
こちらは展望台から見た、myトラウマスポット『湧出(ワジー)』。前回来た時、こんなもんじゃない荒波の中、無謀にもシュノケにトライして、1秒で波にのまれて本気で死にかけた…。命からがら陸地に上がった直後、友達に借りていたフィンが流され、さらにトラウマに追い打ちをかけてくれた。

展望台から見た、『湧出(ワジー)』
 
そして唯一、沖縄CLIPでは、Facebookページで紹介した『GIビーチ』。果てしない寂寥感が離島っぽさを、いや増す。世界に独りぼっちになったような錯覚。これこそ孤島の醍醐味だ。

『GIビーチ』

『GIビーチ』
 
ちなみに、お隣のパワースポット『ニャティヤ洞』は、人が多い(ので、何となく安心。逆に)。洞窟から一歩出ると、パっと開ける海原は、一際眩しい。

パワースポット『ニャティヤ洞』

 
でも、本当は一番行きたかったのは『土の宿』。
 
『土の宿』。
(2008年撮影)
 
重度障がいを持つ木村浩子さんが、「平和の中でこそ福祉は成り立つ」という想いから、1984年に立ち上げた素泊まりの宿泊施設。移住前に来た2回は、ともにこちらでお世話になった。
 
でも、今回は食事付きの別の宿に泊まった。取材の出張だったし、おまけに濃密なスケジュールだったからね。でも本当は違う。何となく、足が向かなかった。そのことには、実は気づかないふりをしていた。この稿を起こすまでは。でも今、筆をゆるりと進めながら、ようやく気づいた。その理由を。
 
最初に来たのは2008年1月。2回目はすぐのその後の4月(この時は、後に入社することになる那覇の企業で面接なども兼ねていた。もちろん何も決まってはいなったが、この時すでに移住の予感めいたものがあって、きっと自分の移住に不安を募らせるであろう両親を連れて、いかに沖縄が素晴らしいかをプレゼンするために)、両親を連れて来た。“よんなーよんなー”(この言葉は、この時、宿主の浩子さんに初めて教えてもらった)な沖縄の空気を知って欲しかったから。
 
『土の宿』のいろり
(2008年撮影)
 
通常、夕飯は宿泊客皆で一品づつ持ち寄り、一緒に卓を囲みつつ、ゆんたく。すると、ふらっと近所のキャンさんが車椅子で現れる。気さくで人懐っこいキャラで、おまけに三線の達人。皆に愛されている。泡盛でホロ酔った頃、素朴な三線の調べが、ぽろぽろと聴こえてくる。「てぃんさぐぬ花」などの定番に初まり、「アリラン」などお得意の曲は情緒たっぷり。
 
でも何より一番心に残っているのが「イラヨイ月夜浜」。スローテンポで哀愁に満ちているわけだが、キャンさんの様々な想いの篭った弾き語りが、言いようも無く、切ない。どうしたらそんな風に弾けるのか聞いたけど、もちろん永遠にできなかった。と言うのも、実は自分も三線をほんの少しばかりたしなむ。移住する前までは、my三線片手に沖縄中を旅して歩いたものだ。ついでに言うと、友人が開いてくれた自分の沖縄行き壮行会では、ライブ(写真一番下,,, 懐&恥)もした。自己流ながらも結構練習して、一応は弾け、「オジー自慢のオリオンビール」は十八番だよ。
 
でも。
沖縄に移住してきからは、忙しさにかまかけて、というのに加え、アンプラグドの三線の音は、相当響くので、借家の我が家では(特に夜は絶対)弾けない…なんて事情も重なり、徐々に三線から離れてしまった(おまけに、こないだカラビナが折れて、それきり触っていない…)。
 
あれから7年。
なんと言うか、自分の中に、三線から離れてしまったという、後ろめたさみたいなものががあったんだ。もっと言うと、それは7年前、まだ移住する前、純粋に沖縄が大好きだった気持ちが、何となく変わってしまったような…、そんな本質的な部分にも通底していた気がする。
 
もちろん、心の奥底では、気づいていたと想う。そのことに。だからこそ、土の宿には、行けなかった。そんなウムイが、今、こうして伊江島の文字を連ねることで、ぽろぽろと浮き彫りになりつつある。
 
『土の宿』。
(2008年撮影)
 
キャンさん、元気かな・・・な〜んて想ってたら、「また弾けばいいさー」。そんな声が聞こえた気がしたよ、キャンさんの。そうだね、また三線やることにするよ。また、三線持って会いに行くよ。だから、また「イラヨイ月夜浜」聴かせてね。
 
そんなウムイと出逢えた、2015年4月、伊江島の2泊3日だった。
 
小川さん、三線で歌を披露
(2008年撮影)
 

沖縄CLIP編集部

同じカテゴリーの記事