沖縄 心の原風景〜こどもたちのためにつくられた生命の田んぼ〜

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歴史文化

初回投稿日:2015.06.13
 最終更新日:2024.03.27

沖縄 心の原風景〜こどもたちのためにつくられた生命の田んぼ〜

心の原風景〜こどもたちのためにつくられた生命の田んぼ〜

海を渡ってやってくる島の風が、頬を撫でるようにみなもを揺らす。眠りにつくために太陽が海に沈む頃、あたりの空気が気を使って薄い藍色にちょっぴり染まる。水の中ではメダカがすいすいと、水の上ではアヒルの子らが列になってよちよちと泳ぐ。朝と夕には白鷺(しらさぎ)がどこからともなく飛んできて餌をついばむ。春と秋にはホテイアオイがそこかしこに薄紫の花を咲かせる。

絵本に出てきそうな、生命にあふれるそんな田んぼが、かつて沖縄にはありました。

人々
 
そこは、内地に出稼ぎに出て稼いできたなけなしのお金をつぎ込んで、一からつくられた子どものための田んぼでした。畑の土を掘り起こし、水路から水を引き、田んぼにつくり変えたのは昭和20年代のやんばるで幼少期を過ごした大城健次さん。南部や中部の街なかから子どもたち招き、田植えや稲刈りを体験させるためだけに維持管理されていたその田んぼは、「めだかの学校」と呼ばれていました。

 
その田んぼがあったのは、ローカルの間で「グンビ」と呼ばれる米軍の保養ビーチ Okuma Recreation Facilityがある国頭村(くにがみそん)の奥間集落。数十年前までは豊かな水田がひろがっていたその地域は、沖縄の畳表の材料になるビーグ(琉球い草)栽培や稲作の代表的な産地として知られていました。けれども、めだかの学校がその一角に10年前まであったことを覚えている人はあまりいません。


 
ハブのように蛇行した畦道(あぜみち)。英国庭園のように中央にしつらえられた円形の池。水草やホテイアオイのためにあちこちに「配置」された水溜まり。メダカやゲンゴロウ、ミズスマシが戯れているのはもちろんのこと、森につながる水路からはタナガー(沖縄の手長エビ)や闘魚が流れ着くオアシスのような場所。農作業体験に飽きた子どものために用意されたブルーシートを敷いた手作りのプール。

 
至れり尽せりのその田んぼは、お米をつくるのための田んぼではありません。そこは生産原理とか経済原理とかをまったく無視した、「いのちの田んぼ」。子どもたちが泥にまみれ、生きものたちと戯れて、五感をフルに動員して、生きている事実を実感できる場所でした。


 
その場所を初めて訪れる保育園児や車椅子に乗った子どもたちは、田んぼを前に、きまって固まってしまいます。生まれて初めて目にする田んぼが怖いのでしょう、なかなか中に入ることができません。でも、それもしばらくのこと。
 
たとえばある日、車椅子に乗った少年がいました。車椅子から大地に降りて泥に触れたその瞬間、それまでこわばっていた頬が、すぐに柔らくなりました。

お互いの体に泥水を掛け合ったり、掌ですくった水をひたすら眺める子どもがいたり。初めての田植えということもあってか、力んだ小さな掌が苗を無情にも押しつぶすこともあったりする。手のひらに乗ったメダカのことがいとしいのか、じっと眺める子どもがいたりする。水がこぼれてしまったその手のひらの上で、もがきはじめるかわいそうなメダカたち。その田んぼでは、生命のドラマがいろんなかたちで繰り広げられていました。

 
「沖縄に限らず、かつては日本のあちこちにあった農村の原風景を、いまの子どもたちにも追体験してほしい、そして、将来大人になって困難や挫折に出くわした時に、心の支えとして、一時的な避難場所として役立ててほしい」
 
どうしてこんなことやっているのかと大人たちから聞かれると、健次さんはそう答えていました。

残念ながらいまは、色々な事情が重なって、めだかの学校は休校中。でも、健次さんの胸の中では次の計画があたためられているようです。

 
人権軽視の管理体制が当たり前だった時代に精神病院に勤務して、サリバンやR.D.レインに代表される「反精神医学」に傾倒し、弱い立場にある「患者」のかたわらに立ち続けた健次さん。沖縄で第1号の男性保育士となり、やがては保育園を経営し、その後は紆余曲折の人生を送った初老のウチナーンチュ。お金では買えない大切なものをなけなしのお金で買い戻し、子どもたちに手渡そうという純粋な営みは、私たちの記憶にいつまでも残り続けています。

沖縄CLIP編集部

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