<沖縄の伝説・歴史ぶらり歩き> 金武観音寺と日秀上人

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歴史文化

初回投稿日:2016.12.29
 最終更新日:2024.04.08

<沖縄の伝説・歴史ぶらり歩き> 金武観音寺と日秀上人

むかしむかし、金武(きん)の洞穴に一匹の大蛇が棲みついていました。大蛇は、涌泉・ウッカガーへ水を飲みに行く途中、家畜を荒らすなど数々の悪行を重ね、村人たちをたいへん苦しめていました。紀州熊野(きしゅうくまの)の那智(なち)から小舟で沖縄本島東部の金武へ渡ってきた真言宗の僧・日秀上人(にっしゅうしょうにん)は、大蛇の悪事を知ると、お経を唱えて大蛇を洞穴に閉じ込めました。おかげで村人たちは平和に暮らせるようになりました。
 
日秀上人が創建された高野山真言宗金峯山(きんぷせん)金武観音寺
 
沖縄本島のほぼ中央、東海岸に位置する金武町(きんちょう)。沖縄自動車道を利用すれば、レンタカーで那覇空港から1時間ほどで行くことができます。町内には、1522年に金武の富花(ふっか)に小舟で辿り着いた日秀上人が創建された高野山真言宗金峯山(きんぷせん)金武観音寺があります。
 
ブーゲンビリア
 
境内には樹齢350年を超えるフクギ、ブーゲンビリア、アカギ、クロトン、オオタニワタリなど沖縄を代表する花木であふれています。
 
金武観音寺
 
現在の観音寺は1942年に再建されたものですが、本堂は沖縄本島で唯一戦火を免れました。また、金武に赴任された米軍人が学者さんであったことから幸運にも観音寺は文化財として保護され、戦前の古い建築様式をいまに伝える貴重な木造建造物となっています。
 
金武観音寺境内にある日秀洞(にっしゅうどう)
 
冒頭の伝説の洞穴は、金武観音寺境内にある日秀洞(にっしゅうどう)と言い伝えられています。日秀洞は、地下10メートル、長さ270メートルほどの鍾乳洞です。観音寺の創建と同じ頃、日秀上人が勧請された観音寺鎮守「金武権現(熊野三所権現)」と、「水天」が洞内にお祀りされています。金武観音寺には、神様と仏様がいっしょにいらっしゃるのです。
 
こかげから眺める金武観音寺
 
いつ訪れても清浄な空気が漂う金武観音寺。明治時代の神仏分離令発令後も、観音寺と金武権現は一体とみなされ、神仏習合の形態が変わることなく受け継がれてきました。境内でのんびり過ごしていると、入れ替り立ち替り参拝者が訪れ、人の姿が途切れることはありません。
 
金武観音寺
 
首里王府編纂の琉球最古の地誌『琉球国由来記』、正史『中山世譜』、冊封使録『中山伝信録』、薩摩藩地誌『三国名勝図会』など、いくつもの歴史書に日秀上人の姿は描かれており、日秀上人の足跡を知ることができます。
 
『中山伝信録』には、200年前に海を渡って金武に辿り着いた日秀上人をうたった民謡が伝わると記されています。神人が来て富蔵(富花)の水は清く神人が遊べば白砂は米と化す、という大意です。高野山で修行を積んだ日秀上人は、農業の知識も有しており、村人に新たな農法を授け、おかげで村は豊作が続くようになったという伝承もあります。日秀上人が人々から慕われ、神人として崇められていたようすが伺えます。
 
クロトンにおみくじ
 
日秀上人が金武に辿り着いたのは、補陀落渡海(ふだらくとかい)によるものだったと伝えられています。補陀落渡海とは、観音菩薩が住むという南海の観音浄土(補陀落浄土)を目指し、単身で小舟に乗り込む捨身行です。小舟には屋形がつくられ、30日分の食料と油を積んで、僧は屋形に入ります。僧が入った屋形の扉は外から釘が打ち付けられ、僧はたったひとり為す術もなく、ただ潮の流れに身を任せて海上を彷徨うことになります。
 
線香
 
日秀上人の乗った小舟には、船底に穴が開いていたそうですが、幸運にもその穴を鮑が塞いだため沈まなかったという逸話も残っています。
 
過酷な補陀落渡海から命からがら辿り着いた金武。温暖な気候、赤いハイビスカス、ピンクのブーゲンビリアなど、初めて見るであろう花々や木樹。日秀上人の瞳には、金武の山々は南海の補陀落浄土にみえたのかもしれません。
 
金武観音寺
 
<沖縄の伝説・歴史ぶらり歩き>
想像するだけで肌が粟立つ補陀落渡海。運を天に任せ、日秀上人が辿り着いたのは、遠く離れた沖縄・金武。人間には、不思議な運命があり、なすべき天命があるのだと感じざるを得ずにはいられません。
 

金武観音寺

住所 /
沖縄県国頭郡金武町金武222
TEL /
098-968-2411

沖縄CLIP編集部

安積 美加(あさか みか)

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