神獅子を崇め、地域のみんなで作りあげる「八重瀬町志多伯の豊年祭」

神獅子を崇め、地域のみんなで作りあげる「八重瀬町志多伯の豊年祭」

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歴史文化

初回投稿日:2024.09.15
 最終更新日:2024.09.13

最終更新日:2024.09.13

神獅子を崇め、地域のみんなで作りあげる「八重瀬町志多伯の豊年祭」 クリップする

写真提供:志多伯公民館

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美しい満月の八月十五夜に行われる豊年祭

沖縄では、旧暦8月15日の八月十五夜(ハチグヮチジューグヤ)に、五穀豊穣、無病息災を祈願する祭事が各地域で行われます。今回は、沖縄本島南部の八重瀬町志多伯(やえせちょうしたはく)で、約300年続いてきたとされる歴史深い豊年祭をご紹介しましょう。

沖縄の年中行事は、旧暦で行われるため、年によって開催日程が変わります。八月十五夜もそのひとつで、平日にあたる場合は、土日にずらして祭事を行う地域もあるのですが、志多伯の豊年祭は、「この日にやることに意味がある」と、必ず八月十五夜当日とその翌日に開催してきました。2024年も、旧暦8月15日にあたる新暦9月17日(火)と18日(水)に開催されます。

豊年祭
写真提供:志多伯公民館

志多伯の豊年祭は、人の年忌法要と同じく、1年忌、3年忌、7年忌、13年忌、25年忌、33年忌の節目に当たる年にだけ行われるのが特徴です。33年忌が終わると、翌年からまた1年忌がスタート。2024年は、13年忌にあたり、前回の7年忌から実に6年ぶりの開催となります。なぜ年忌を用いているのか? その理由は未だ不詳ですが、かつて琉球王府の諸行事が年忌ごとに催されていたことに由来すると考えられているようです。

豊年祭
写真提供:志多伯公民館

豊年祭の1日目は、朝の拝みからスタート。村を練り歩く昼の道ズネーと続き、夕暮れからは馬場のバンク(仮設舞台)で獅子舞、棒術、舞踊、芝居、狂言、組踊などの演舞が行われます。舞台で披露されるのは、なんと30演目、出演者総数は約200名。終了するのは深夜0時という盛大なお祭りです。

豊年祭
写真提供:志多伯公民館
 

村の守り神として崇める「獅子加那志」

豊年祭の中心的存在となるのは、村の守り神である獅子加那志(シーシガナシ)。加那志は「〜さま」という意味で、志多伯の人たちは神獅子として崇敬する意味を込めて、そのように呼んでいるのだそう。志多伯の豊年祭は、この獅子加那志を崇めることを第一の目的とし、「獅子加那志○年忌豊年祭」と銘打っているのが大きな特徴。当日、獅子加那志は、8カ所の拝所で獅子舞を演じながら道ズネーをした後、舞台会場で前獅子、中獅子、後獅子と3回に渡って演舞を行います。

豊年祭
写真提供:志多伯公民館

「村の人たちにとって、獅子加那志は特別な存在です」。そう語るのは、志多伯に生まれ育ち、豊年祭の実行委員を務める神谷武史(かみやたけふみ)さん。高校生の頃、豊年祭の舞台で見た地元の先輩のかっこいい姿に憧れ、芸能の道へ。現在は、地域文化の継承、発展を考える活動を根っこに携えながら、プロの実演家として国内外のさまざまな舞台で活躍されています。奥様の加奈子さんも、琉球舞踊の実演家。神谷家に嫁いだ2003年の25年忌から、武史さんと共に志多伯の豊年祭を支えています。

豊年祭
豊年祭で加奈子さんと「加那よー天川」を踊る神谷武史さん
写真提供:志多伯公民館

「志多伯は、もともと隣村の当銘(とうめ)、小城(こぐしく)と合わせて一つの村だったという説があります。そこには、首里王府から拝領したとされる獅子と龕(がん・亡くなった人をお墓まで運ぶ神輿のような葬具)があったそうで、後に村が分かれることになった際、獅子は志多伯に、龕は当銘と小城に残されたという言い伝えがあります。以来、志多伯では獅子を守り神として獅子屋に奉り、大切に崇めてきました。ところが1945年、沖縄戦でこの一帯は焼け野原に。獅子屋のある村の南側は、爆薬倉庫が置かれたことで、立ち入り禁止となってしまいました。しばらくして、ようやく獅子屋を訪ねてみると、獅子を奉った木箱はあるものの、中の獅子がいない。どこに行ってしまったのか。村の人たちはひどく落ち込んだそうです。そこで、村の神谷房吉(ふさきち)さんという大工さんを中心に、戦火を逃れたデイゴの木を使って作られたのが、この獅子加那志です」

昔の写真
1970年の25年忌豊年祭。後列右から2番目が故神谷房吉さん
写真提供:志多伯公民館

「デイゴの木には、爆弾の破片が突き刺さっていて作業がうまくいかず、木を2度も取り替えたとか。壕の隣りにあった3度目の木には、戦死者の髪の毛や時計が下がっていた。その木に手を合わせて取り除き、やっと獅子を作り上げたと聞きます。そもそも獅子舞というものは、食べるものもない、薬もない、毎日人が亡くなっていく。そんな苦しい状況の最中、村の人たちが集まって手を合わせ、厄払いとして獅子を舞うことから始まったと言われます。志多伯でも戦後の苦境に、獅子加那志を再現して心の復興を祈ろう、と。そして、1946年の八月十五夜に、新たなスタートとして1年忌の豊年祭を行いました。胴体の毛に用いる植物もなかったので、砲弾にかぶせてあった軍用の網を胴体につけ、獅子舞を演じたそうです。そうやって戦後78年に渡り、村の人々の思いと共に生きてきたのが、志多伯の獅子加那志なんです」

豊年祭
獅子頭の中には「昭和二十一年作 一九四六」と彫られている

獅子加那志は、村の守り神であるゆえ、村外に出すことは禁止されています。ふだんは村の山手にある獅子屋「野呂殿内(ノロドゥンチ)」の蔵に奉られており、村の人でもめったに会うことはできません。会えるのは、毎年一度の八月十五夜。「野呂殿内」の御庭(ウナー)とその上にある拝所「根屋(ニーヤ)」の2カ所でのみ獅子舞を演じられることになっています。ただし、八月十五夜であっても、獅子加那志が村に「下りてくる」のは、年忌の豊年祭のときだけ。旗頭を先頭に、獅子加那志と芸装した出演者たちが隊列を組み、道ズネーで下りてくる。その尊い姿を、村の人たちが総出で迎えるのです。

豊年祭
写真提供:志多伯公民館

獅子加那志の「風涼し(カジシダシー)」と化粧直し

豊年祭の2ヶ月前ほど前になると、志多伯公民館での演舞の稽古や、馬場での棒術の稽古など、本格的な準備が始まります。出演者の中には、豊年祭で初めて琉球芸能に挑戦するという子供たちも。神谷武史さん、加奈子さん夫妻をはじめ、過去の豊年祭に出演してきた歴代の先輩方や、長年舞台を積んできた実演家の方たちが指導にあたり、家族、兄弟、友達、地域のみんなで支え合いながら、稽古に励みます。

豊年祭
写真提供:志多伯公民館

新暦8月18日には、本番で使う衣装や小道具、そして獅子加那志の状態を確認する「風涼し(カジシダシー)」が行われます。「野呂殿内」では、蔵から獅子加那志を出し、祈りを捧げながら「かぎやで風」の奉納演奏。御庭にて、獅子加那志に御神酒を捧げる儀式、獅子舞と棒術の演舞も披露されました。

豊年祭

豊年祭

豊年祭

地域の皆さんが「元気でしたか?」と労るように、獅子加那志の口を開けたり、髪の毛を触ったり、守り神との再会を喜ぶ様子は、思わず頬がゆるむ光景です。

豊年祭

豊年祭

豊年祭

続く9月1日に行われたのは、獅子加那志の「化粧直し」。色の塗り直しや髪の毛の付け直し、胴体の毛をほぐして整えるなど、晴れ舞台に向けて仕上げていきます。

豊年祭

豊年祭

これまで豊年祭を迎えるたび、この作業をしてきた先輩方が、「これからは、あんたたちがやっていく番だよ。ちゃんと見ておいてよ」と、若い世代に声をかけながら、一緒に獅子加那志を囲む場面も。

豊年祭

豊年祭

その中には、沖縄の獅子頭を数多く手がける獅子工の仲宗根正廣(なかそねまさひろ)さんの姿もありました。獅子頭には、特別な祭事に村内でしか舞えない神獅子と、村外で行われる舞台や稽古時に使用する交流獅子(レプリカ獅子)がありますが、仲宗根さんは、志多伯で現在使われている交流獅子を手がけた方。さらに、2022年には、戦後77年の獅子加那志が、ゆくゆく世代交代を迎えることを見据えて、未来の神獅子となる模型獅子も製作されています。

一番左が仲宗根正廣さん
一番左が仲宗根正廣さん

豊年祭

「ここの神獅子の特徴は、くりくりした丸い眼と、下顎の真ん中に入っている宝珠(ほうじゅ)。獅子頭に宝珠が入っているのはめったに見たことがないから、特別だね。宝珠は、願い事が叶うと言われているから、この獅子が願いを叶えてくれるかもしれないよ。戦後78年もこんなにいい状態で残っていて、とってもめずらしいと思う。なにより、こんなして地域の人たちがワイワイ集まって、自分たちの神獅子をきれいにしていて、こういう光景が本当に素晴らしい。やっぱり人の思いが大切。獅子にもちゃんと伝わっているはずね」。そんな仲宗根さんの話を聞きながら、きれいに化粧直しをされた神獅子を眺めると、なんだか微笑んでいるように見えて不思議でした。

豊年祭

下顎の真ん中にあるのが宝珠
下顎の真ん中にあるのが宝珠

豊年祭という地域文化の継承、世代交代で未来へ

旧暦8月1日、新暦9月3日には、いよいよ神獅子が始動。この日を皮切りに本番までの2週間、「野呂殿内」の御庭で、獅子舞の稽古が行われます。夜の20時、集落に響く銅鑼(ドラ)の音と指笛。そこで舞う神獅子は、先日の化粧直しのときとは違い、「ついに目覚めた」という、ただならぬ気配が。怖さもあり、神獅子たる力を体感できた喜びもあり、心身が震えました。

豊年祭

このとき、銅鑼を鳴らし、獅子舞の指導をしていたのは、神谷武史さんの父親である政光(まさみつ)さん。1970年、19歳のとき、25年忌豊年祭で初めて神獅子に入って以来、獅子舞の演舞、指導を続けてきたそうです。豊年祭で神獅子に入れる舞手は、6人のみ。2人1組となり、3回の演舞を交代して踊ります。「獅子舞の中に入れるのは、とっても嬉しかった。誇りだね」と政光さん。

豊年祭

今回の13年忌豊年祭では、武史さんの息子で、政光さんの孫にあたる21歳の武之心(たけのしん)さんが初めて神獅子に入ります。一方で、「今回の豊年祭が最後」と語るのは、25年以上、神獅子に入ってきた神谷尚希(なおき)さん。「獅子舞には若い世代が入ってくれて、棒術も小さな子供たちが一所懸命頑張ってくれていて。これからうまく世代交代して、志多伯の伝統文化がしっかり続いていくといいなと思います」

豊年祭

前回の7年忌から掲げている豊年祭のテーマは、「継承」。この13年忌を終えたら、次の豊年祭は12年後。継承への意識は今、一層強くなっていると武史さんも語ります。

継承

「これから長老や有識者がいなくなってしまうことを考えると、自分たちが常に危機感を持って関わらないと。そう思って取り組んできました。次の25年忌までどうやってつなげていくか。それを考えるために、高校生、大学生に呼びかけ、『リーダー塾』というものを結成しました。志多伯の歴史を振り返ると、いろんな人のいろんな行動があって、だからこの集落は生き続けているんだなと感じます。水辺に石を投げると、波紋が生まれる。水は動きがないと腐るけど、常に誰かが石を投げ続ければ、波紋は広がっていく。だから、自分たちが石になってみないかって。そしたら集まってくれたんですよね。今後の豊年祭は、彼らが主役。今回の13年忌では、彼らが志多伯の文化を未来につなげていけるように、一緒に祭りの絵図を描きながら、導いてあげることが大事だなと感じています」

豊年祭
 写真提供:志多伯公民館

武史さんが、思い描く未来。それは、障害の有無、年齢、言葉や文化の違いを超えた「ユニバーサルアート」で作る志多伯豊年祭。きっかけは、車椅子暮らしをしている82歳の先輩が、「自分も道ズネーに三線で参加できんかね?」と相談してくれたこと。祭りはみんなのもの。誰でも安心して祭りに参加できるように。そのための環境づくりとして、今回は県立看護大学と連携し、救護防災班を立ち上げ、サポートを強化することになったそうです。また、“防災×芸能”という視点から、「汗水節」の舞踊では、災害時に力を合わせてバケツリレーをしたり、ロープを引く場面を想定した動きを取り入れるなど、新しい試みにも挑戦しています。


豊年祭
写真提供:志多伯公民館

リーダー塾のメンバーのひとり、伊波妃菜(いはひな)さんは、今年、歌劇「桃売りアン小」に挑戦する22歳。「12年後は34歳。どこに住んでいるか、どんな仕事をしているかわからない。豊年祭に参加できるかどうかもわからないから、今回の13年忌は絶対に参加したかった。大学を1年休学して、準備や演舞の稽古に力を注いでいます」。今年の豊年祭にかける想いを、そう語ってくれました。

戦後の苦しい状況下で、再び立ち上がった志多伯の豊年祭。それから78年の間、人々のさまざまな思いが継承され、豊かに育まれてきた地域の文化と共同体は、今もここにしっかりと根付いています。そんな志多伯の地域の姿を、ぜひ「獅子加那志13年忌豊年祭」の現場で体感してみてください。

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【開催日】 /
2024年9月17日(火)・18日(水)
【時間】 /
<17日>
道ズネー 14:00~ 野呂殿内(獅子屋)~諸拝所~馬場
舞台 18:00~ 志多伯馬場

<18日>
道ズネー 16:00~ 野呂殿内~
舞台 18:00~ 志多伯馬場
【場所】 /
野呂殿内/沖縄県八重瀬町志多伯35番地(屋号:神谷隣り)
志多伯馬場(志多伯農村公園)/沖縄県八重瀬町志多伯254番地
【問い合わせ】 /
098-998-2141(志多伯公民館)
【公式サイト】 /
https://shitahaku.ti-da.net/d2024-08.html
【備考】 /
※会場に駐車場はございません。公共機関をご利用ください。夜20時以降はバスの運行がありませんので、タクシーなどをご利用ください。
【バスのアクセス】 /
那覇バスターミナルより沖縄バス35番志多伯線「志多伯」下車

岡部 徳枝

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