~浜辺に茶屋を建てた人~さちばるの庭/稲福信吉さん【後編】

~浜辺に茶屋を建てた人~さちばるの庭/稲福信吉さん【後編】

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歴史文化

初回投稿日:2017.01.17
 最終更新日:2024.07.19

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~浜辺に茶屋を建てた人~さちばるの庭/稲福信吉さん【後編】 クリップする

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「海以外に何もないこんな田舎にカフェをつくっても誰も来ないよ」とはじめの頃は誰もが冷笑していたという『浜辺の茶屋』。『~浜辺に茶屋を建てた人~【前編】』では、それでもなお、前に進んだオーナーの稲福信吉さんに浜辺の茶屋を始めた理由などを聞かせていただきましたが、後編では稲福さんの少年時代から現在にいたるまでの物語をご紹介します。
 
「海も山も遊び場でね、海のどこに行けば何を獲れるか、山のなかのどの辺りにどんな果物がいつ頃実るか知ってたんだよね」。前もって狙いをつけておいた果実でも、熟す機会を見誤ると、誰かに食べられてしまう。時には鳥や野ネズミに先を越されてしまうこともある。食べ頃を的確に判断して、誰よりも先に収穫しなければならない。お金を出せば何でも手に入る時代では考えられない競い合いがそこにはあった。けれども、同時に分かち合いの精神も生きていたという。
 
幼い頃に駆け回っていた原風景を再現した「さちばるの庭」
 
「自分で見つけた果物を食べた時の感動はそりゃあすごかった。大人になった今でもバンシルー(グァバ)はおいしいけど、子どもの頃の感動は今の30倍くらいはあったかなぁ。昔は貴重な宝物だったんだよ」。稲福さんが少年時代に野山で見つけたバンシルーやシークヮーサーはその当時は特別な存在だった。幼い頃に駆け回っていた原風景を再現した「さちばるの庭」でもそのバンシルーが古木となって、ところどころでいまも息づいている。
 
「さちばるの庭」案内する稲福さん
 
宝の山には戦争の傷跡も残っていたそうだ。「不発弾とか薬莢とかあちこちに残っていましたね。薬莢や小銃の弾丸を見つけると拾ってきて、磨くんだよ。真鍮でできているからピカピカになってね。薬莢は輪切りにして指輪に、弾はペンダントにしてた」。稲福さんの親の世代だと、危険を承知で不発弾を回収して、お金に変えて生活の足しにしていた人も多かったという。中には解体中に爆弾が暴発して命を落とした人もいた。
 
「さちばるの庭」からの眺め
 
玉城(たまぐすく)の丘の上にはその当時、米軍の基地があり、時々カーニバルが開かれると、沖縄の人も家族連れで基地内に立ち入ることができたそうだ。「別世界が広がっていたね。音楽隊の演奏がかっこよかった。中学1年までは柔道部だったけど、中学2年生の頃に創設されたブラスバンド部に、迷わずに入ったよ」。今でもトランペットを楽しんでいる稲福さん。仲間たちと組んでいるジャズバンドの演奏は地元でも評判だ。
 
「さちばるの庭」の花
 
高校を卒業すると玉城を離れ那覇に移り住んだ。実家は専業農家でサトウキビの生産量は集落でも有数だったという。「物心ついた時から手伝わされてね。草を刈りに行ったり、牛や豚の世話をしたり、自由に遊んでいる友だちを羨ましかったよ。冬になるとサトウキビの収穫。これがまた重労働でね。楽しい思い出以上に辛い記憶がいっぱい。だから、二度と故郷には戻りたくないと思ってたね」。土木コンサルタントとして過ごした那覇での暮らし。お洒落をして、ゴルフを楽しんで、流行りのお店でディナーを楽しむ都会の生活はキラキラ輝いていた。やがて言葉も考え方も日本的になっていった。けれども、何年か経つと本音と建前、見栄と虚勢の世界に息苦しさを感じはじめた。そして、沖縄らしい生き方はなんだろうかと考えるようになった。
 
「さちばるの庭」の花
 
稲福さんがたどり着いた沖縄らしい生き方は、少年時代に過ごしたふるさとでの自然との距離が近い暮らしだった。やがて、週末が来ると子どもを連れて玉城に帰り、自然を満喫する生活が始まった。自然にどっぷり浸かって生きていた子どもの頃、お馴染みだった土地の匂い。再び触れた懐かしい匂いが心の奥の何かに触れたのだろう。しばらくたって決断した。今から22年前、40歳のときに都会での生活を捨て、玉城に戻ることにした。そして、始めたのは原風景を取り戻すこと。
 
「さちばるの庭」のアダン
 
その土地にもともとある木々や岩を生かすのが稲福さんの仕事の流儀。「やっとジャングルみたいになってきた」。長い間愛情を注いできたさちばるの庭を眺めながら稲福さんは目を細める。「プルメリアが育ちすぎてる。キャットテール(ベニヒモノキ)も他の緑に隠されてるから光を入れないといけない。剪定せんといかんなぁ」。さちばるの庭を案内しながら、独り言のようにつぶやく。
 
ドラセナのレッドピンクの葉
 
「ほら、このドラセナきれいでしょう」とレッドピンクの葉を撫でる。その姿は愛おしい我が子の誇りに思う父親のようだ。「語りかけると相手も答えてくれる。『この土、おいしいよ』って教えてくれるんだよ」。植物が満足している時は、新芽が活き活きしているという。
 
手のひらにあるのは浜から拾ってきた海草。
 
手のひらにあるのは「浜辺の茶屋」の前の浜から拾ってきた海草。海のミネラル分が雨の力でゆっくり溶け出し、植物に勢いをつけるのだそうだ。「これは道路を掃いて集めた枯葉。これを敷き詰めると保水性が高まるし、強烈な太陽光線によるダメージを和らげてくれる。厚く敷くと湿度が高くなりすぎるから、ちょうどいいのはこれくらいね。植物にとって重要なのは微生物。微生物がすくすく育つ環境をどう整えるかは、すべて野山での経験と先輩たちから受け継いだ知恵から学んだです」。大切にしているのはなるべく現場を知り、土地から学ぶこと。「本当に役立つのは本から学んだことではない」。
 
ドラセナのレッドピンクの葉
 
いろんな微生物が土の中で調和しているからこそ、木々や草花は生き生きできる。それぞれの役割を果たすことができれば、その土地に関わるすべての命が輝き始める。その手伝いを稲福さんが20年以上続けてきたからこそ、さちばるの庭は命溢れる場所になったのだろう。ここに生きている植物や昆虫や、時々遊びに来る鳥たちはみんな家族のような存在に違いない。稲福さんに風土とともに生きることの価値を教えたのも彼らに違いない。
 
Traveler's Palm(トラベラーズ パーム)
 
無意識に人は壁をつくりたがる。自分を守るために、大切な仲間を守るために。必要だからとこしらえた壁は、やがて日陰をつくり、風通しを悪くする。生きものが健やかであるためにはに多様性は欠かせない。稲福さんは、沖縄的であることにこだわり続けてきたし、沖縄に根をおろそうと考えている移住者を積極的に受け入れてきた。
 
苔
 
「シマ(沖縄)の風を吸って生きてきたわけだから、シマの風のおいしさはよく知っている。できればそのおいしさを独占したいと思う。日本語でいじめられてきた体験も、“日本語で殺されてきた”経験もウチナーンチュにはあるからね。最近の若い世代はそういう体験が身近ではないから、日本人だウチナーンチュだと区別するのは古臭いって考えているみたいだけど…。それでもやっぱり、おいしい風をよその人にも味わってほしいと思う自分がいるんです」。良いとか悪いとか簡単に決められないことが人生にはたくさんある。そういったことを教えてくれるのが沖縄という場所なのかもしれない。
 
ガジュマル
 
「郊外型カフェの先駆者として取り上げられることが多いけど、自分がやりたいのは先祖が代々守ってきた沖縄の土地を“外資”に頼らず磨きあげることなんだよね。誰かと比べない。他の場所と比較しない。よその力に頼らない。その土地その土地にふさわしい“幸せのものさし”を使うことで、土地は磨かれるはず」。沖縄的だなあと思う風景に出会うたびに、稲福さんが初めて会った時に語ってくれたこの言葉を思い出す。
 

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さちばるの庭

住所 /
沖縄県南城市玉城字玉城18-1
電話 /
070-2322-8023
サイト /
https://sachibaru.jp/niwa/

沖縄CLIP編集部

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